【短編小説】 ブリッジ - 20年前の友達以上、恋人未満
だんだんと空が明るくなってくる。
この時間に走るのは気持ちが良い。街を歩いている人はほとんどいない。車もほとんど走っていない。
もう少しで藤塚橋だ。心臓の鼓動が早まる。
今朝は10キロ走ることに決めた。走る場所や方向は毎回変えることにしている。今日は国道4号線を北上してみよう。片道5キロでどこまで行けるだろうか。そう考えながら走り始めた。
トランス・ミュージックがイヤホンから聞こえてくる。ビートを刻む力強いパート。静けさと共に美しいメロディーを奏でるブレイク。その繰り返しが陶酔感や恍惚感をいざなう。
NIKEのジョギング・アプリが定期報告を告げる。3.5キロでここまで来れた。ということは・・・。
ある考えが浮かぶ。久しぶりに行ってみてもいいのかもしれない。久しぶりというレベルではないのかもしれないけれど。何年ぶりだろうか・・・ おそらく20年ぶりだ。
心を決める。よし、行ってみよう。藤塚橋の先へ。あの場所へ。
国道沿いを北に向かって走り続ける。ひんやりとした空気が気持ち良い。
前方に春日部中央病院が見えてくる。藤塚橋はもうすぐだ。空の明るさが少しずつ増してくる。曇っているため、太陽は見えない。今にも雨が降りだしそうだ。
病院近くの交差点で国道を右に折れると、すぐに藤塚橋が見えてくる。その橋を渡ってしばらく行ったところに彼女の家がある。いや、正確には、あった。
もう彼女はそこには住んでいないのだろう。年齢は僕のひとつ下だった。結婚して、どこか別の街で暮らしているに違いない。彼女の両親はどうだろうか。まだそこに住んでいるのかもしれない。何回か顔を合わせたことがある。でも僕のことを覚えてはいないだろう。もしかしたら両親も別の街に引っ越しているのかもしれない。それならそれで構わない。
20年前に何度も訪れた場所。今はどうなっているのだろうか。何も変わらずに残っているのだろうか。なんとなくそれを確かめたくなった。
彼女は同じアルバイト先で働いていた。 僕が大学生の時だ。友達だった。とても仲の良い友達だった。でも、実際はどうだったのか・・・。
彼女が僕のことをどういうふうに考えていたのかはわからない。今覚えているのは、僕と二人きりでいる時、彼女はいつも僕の手を握っていたということ。水滴で曇った窓ガラスの上に、彼女が指で相合い傘を書いていたということ。その中に彼女の名前と僕の名前が書かかれていたということ。その名前を読みながら僕に向かって嬉しそうに微笑んでいたこと。いつも彼女が僕のそばにいたということ。
とはいえ、僕は勘違いが多いのだ。だから、彼女に関してもそうだったのかもしれない。でも、彼女はきっとそうなんだろうなって、何かそういう確信めいたものがあった。
僕のほうは彼女のことをどう思っていたのだろうか。彼女のことが気になっていたことは確かだ。好きだったのかもしれない。そうでなかったのかもしれない。よくわからない。優柔不断ではっきりしない、あの頃の自分。嫌な自分。情けない自分。
優柔不断ではっきりしない・・・ か。今も変わっていないじゃんね。
6月の早朝。空気が澄んでいて、昼間とは違った匂いがする。草木の匂い。
交差点で国道を右に折れ、春日部中央病院を左手に見ながら走る。すぐに藤塚橋が見えてくる。
彼女は自転車でバイト先に来ていた。時々電車で来ることもあった。僕は知り合いから3万円で譲ってもらった自動車、おんぼろのスターレットでバイト先に通っていた。
彼女が電車で来ている時は、だいたい僕が彼女を家まで送り届けていた。帰り際、車のエンジンがかからずに、二人であたふたしたこともあった。仕方がないので車の中で長いあいだ語り合ったことも何度かあった。
知らない人が見たら、恋人同士に見えたかもしれない。でも、僕たちが付き合うことはなかった。最後まで友達のままだった。自分の気持ちも、彼女の気持ちも最後までわからずじまいだった。携帯電話の機能が通話と電話帳だけだったあの時代。いや、携帯電話よりもポケベルの方が主流だったあの時代、僕たちが再び連絡を取り合うことはなかった。
ただ、その後も、僕は彼女のことが心のどこかで気になっていた。藤塚橋の近くを通るたびに、彼女がどこかにいるのではないかと探していた。
彼女に偶然出会ったのは、それから10年が経った後だった。僕は車を運転していた。信号で止まった時に、彼女が横断歩道の近くに立っているのが見えた。すぐに彼女だと分かった。
僕は車の中から彼女に声を掛けた。その時に交わした言葉はよく覚えていない。車が走り出す直前だったので、きっと 「久しぶり」 「元気だった?」「またすぐに会えるよね」「じゃあね」みたいな感じだったと思う。藤塚橋は僕の家から車で15分程度のところだし、よく近くを通っていたので、実際にまたすぐ会えるだろうと思っていた。
結局、彼女に再会することはなかった。あれからまた10年の歳月が流れてしまっていた。
もう二度と彼女に会うことはないのだろう。今ではそう思っている。それなのに、藤塚橋の近くを通るたびに、いまだに彼女の姿を探してしまう。
ひんやりとした空気の中。走りながらぼんやりと考える。彼女の家の近くまで行ったら何かが変わるのではないか。彼女はもうここにはいない。藤塚橋の近くに来ると感じる彼女の存在、彼女の面影、その全てが幻影なのだ。そう確信できるのではないか。
本当はわかっていたのだと思う。いつかはそうしないといけないということを。でも、僕は逃げていた。彼女の存在を心の中から消してしまうのが怖かったのだ。
行こう。それで、きっと何かが変わる。
藤塚橋に差し掛かる。20年前に何度も車で通った橋。彼女と一緒に通った橋。先程から霧雨が降ってきている。
橋を渡り終え、しばらく道なりに走る。イヤホンから聞こえてくるトランス・ミュージックが相変わらず激しいビートを刻んでいる。
左手にドラッグストアのある交差点が見えてくる。唐突に昔の記憶がよみがえる。この交差点を左に曲がったのではなかったか。確信はない。しかし、シャッターの閉まったこのドラッグストアの景色を20年前に何度も見ていたような気がする。
この胸が締め付けられる感覚は何だろう。期待や不安ではない。恐怖に近い感覚だ。
交差点を左に曲がる。そして直感的に、すぐ先の路地を右に曲がる。何となくこの道だと思った。
しばらく走ると公園が見えてくる。この公園は記憶にある。懐かしさが込み上げてくる。彼女の家があったのは、この通り沿い、もしくはもう一本左側の通りだったように思う。
辺りはすっかり明るくなっている。雨が少しずつ強くなってきた。人の通りはない。静かな場所だ。走りながら、家の表札を一個一個確認していく。彼女の家があったのはこの辺りだったように思う。
しばらく走ってみる。それらしき家はないようだ。結局、突き当たりの道まで来てしまった。今走ってきた通りではなかったのかもしれない。でもこの突き当りの道は見覚えがある。確かにこの周辺なのだ。
ぐるっとUターンをして、もう一本左側の通りに入る。この通りだったろうか。そうかもしれない。そうでないかもしれない。
しばらく走ってみる。
彼女の笑顔を思い出す。
この通りではないような気がする。でも、なんとなく見覚えがあるような気もする。
彼女の眼差しを思い出す。
50メートルほど先にそれらしき家が見える。
ドキッとする。
彼女とは本当に何もなかったのだろうか。
彼女の声を思い出す。
あの家だったかもしれない。
胸を締め付ける感覚が再び僕を襲う。
本当に友達だけで終わったのだったか。
彼女の匂いを思い出す。
何か大事なことを忘れているのではないだろうか。
家が近付いてくる。
心臓の鼓動が高まる。
彼女のぬくもりを思い出す。
本当に何もなかったのか。
家の前まで来る。
彼女の吐息を思い出す。
表札を確認する。
違う名前だった。
困惑したような、ほっとしたような、複雑な気持ちになる。やはり彼女はもうここにはいないのだ。そう考える。彼女の家があったのは、さっきの通りか、この通りのはずだった。しかし家はなかった。
彼女はもうここにはいない。彼女の家族でさえも。それがわかった。それだけで十分ではないか。
これで良かったのだ。何かがふっきれた感じがする。もう彼女には会うことはないだろう。
唐突に涙か溢れてくる。
目を閉じる。
20年前の彼女が僕の頭の中に現れる。
「これで前に進めるね」 彼女が静かに囁く。
「うん、そうだね」 僕は答える。
「良かった」 彼女が微笑みかける。「さようなら。元気でね」
彼女が少しづつ遠ざかっていく。
消えていく彼女に向かって僕も、さようなら、と言う。
涙を拭う。この涙は悲しみの涙ではなく、感謝の涙だったということに気付く。
なんだろうか、今はとても晴れやかな気分だ。
「さようなら」 僕はもう一度彼女に向かって言う。
ここに来て良かった。これでやっと前に進むことができる。過去ではなく、未来に向かって。
「さようなら。そして、ありがとう」
いつの間にか雨がやんでいた。雲の切れ間から、ところどころ青空が見え始めている。
イヤホンから聞こえてくるトランス・ミュージックがブレイクに入り、静かな美しいメロディーを奏で始めていた。
(了)
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