【小説】モンティ・ホール問題と水奈とEXCEL(第1話)


 まだ肌寒さが残る4月上旬。桜の花が咲き始めたある晴れた日のことだった。水奈がアメリカから帰国していたので僕たちは久しぶりに飲みに出かけた。その日の夜遅い時間、彼女が僕に聞いてきたんだ。

 「ねえ、モンティ・ホール問題って知ってる?」

 僕は知らなかった。だから「知らない」と答えた。

 「ふーん、そっか」彼女は目を細めながら言った。「じゃあ、教えてあげる」


 僕たちはふわふわしたベッドの中にいて、赤と黒を基調とした不思議な色合いの天井を見ながら話をしていた。疲れた身体を休めつつ、お互い、こういう感じで話をするのが好きだった。

 この日話題になったのは「確率」だった。僕たちは数学や物理学に関する議論をすることが多かった。あとは心理学とか哲学的な話をするのも。

 部屋の壁の上方、天井に接する辺りをぐるっと黒色の木枠が巡っていた。その木枠と壁の間から仄かな緑色の間接照明が天井に向かって伸びている。赤色と黒色が混ざった天井に薄緑色の間接照明。不思議な色合いだった。妖しい感じがした。

 天井に備え付けてあるスピーカーからは波の音が聞こえていた。寄せては返す涼しげな波の音。優しい波の音。チャンネルを色々と変えてみて、何となくこの波音に落ち着いたのだった。

 そういえば以前、水奈と有線に関する議論をしたことがあったっけ。「有線は今でも有線なのだろうか」、「もしかしたら今の有線は途中で無線になっているのではないか」、「携帯電話で使用している電波や、WiFi、その他の無線技術が途中に入っている場合もあるのではないか」、「もしそうなら、それはもはや有線とは言えないのではないか」、そんな事をとめどなく話し合った。そしてふたりが出した結論は、「それでも有線は有線である」だった。


 「・・ねえ、聞いてる?」

 はっと我に返る。水奈が何かをしゃべっていた。

 「・・聞いてなかったでしょ?もう・・」少しふてくされたような声で水奈が言う。「モンティ・ホール問題っていうのはね・・ こういう話なの・・」

 それから15分くらいかけて詳しい内容を説明してくれた。


 要約すると、こういうことだ。


 概略:

◆ モンティ・ホールという人物が司会をしていたアメリカのゲームショー番組 「Let's make a deal」 の中で行われたゲームに由来する。

◆ 一種の心理トリックになっていて、誤った答えを直感的に推論してしまう人が多い。

◆ 正しい答えを聞いても納得できない人が少なくないことから、モンティ・ホール・ジレンマ、またはモンティ・ホール・パラドックスとも言われる。


 モンティ・ホールが行ったゲームの内容 (手順):

◆ [A] [B] [C] という3つのドアがあり、そのうしろにそれぞれ [景品] [ヤギ] [ヤギ] がランダムに置かれている。(景品がアタリ、ヤギがハズレである)

◆ 最初に、プレイヤー(挑戦者)はドアを1つ選ぶ。

◆ 次に、司会のモンティが残りのドア2つのうち1つを開ける。

 モンティが開けるドアは、必ずヤギが入っている(ハズレの)ドアである。

◆ 最後に、プレイヤーにドアの選択を変更する(残った1つに変更する)権利が与えられる。


 問題:

 プレイヤーはアタリを取る確率を増やす為にドアを変更すべきだろうか、それともそのままにしておくべきだろうか?


 答え:

ドアを変更すべき。


 理由:

なぜなら、プレイヤーが最初に選択したドア、モンティが開けたドア、残ったドアのそれぞれの当たりの確率は、1/3, 0, 2/3 であり、ドアを変更しなければアタリの確率は 1/3 のままだが、ドアを変更すれば 2/3 となり、アタリの確率が2倍になるから。


 ここまで聞いた時に、僕は「あれ?」と思った。

 「ドアを変更してもしなくても結果は同じじゃない?」僕は水奈に尋ねる。

 彼女は「ふふふ」と笑っている。

 「いや、待てよ・・」僕は頭を整理しながら言葉を続ける。「司会者がハズレのドアを1つ開けたのだから・・ この状態で選び直せば、当たる確率は 1/2 になるのかな。そうだよね。もともと 1/3 だったものが 1/2 になるわけで・・ ああ、そうか、ならば変更したほうが良いんだ」

 水奈はまだ「ふふふ」と笑っている。とても楽しげな表情だ。

 「これのどこが問題なの?」僕は言う。「簡単じゃない? ・・パラドックス? ・・ジレンマ?なんで?」

 水奈は何も言わずにこっちを見つめている。口元だけが、ぷるんぷるんしている。

 「いや、あれ・・?」頭の片隅に何となく違和感があった。僕はそれを言葉にしようとする。「ドアを変更してもしなくても・・ どちらにしても確率は 1/2 か。司会者がハズレのドアをひとつ開けた時点でドアは2つになった・・ つまり、仮にドアを変更しなかったとしても当たる確率は 1/2 だ。ん?じゃあ、あれか・・ あれ?結局はドアを変更してもしなくても結果は同じってこと?どっちにしても当たる確率は 1/2 ・・ってことは、やっぱり・・ ドアを変更する必要は・・ ない? ・・あれ?おかしいな・・」

 水奈が笑いながら言う。「答えは “ドアを変更するほうが良い” だよ。理由は “当たる確率が2倍になるから” だよ。ドアを変更しなければ確率は 1/3 のままだけど、ドアを変更すれば確率が 2/3 になるんだよ。当たる可能性が2倍になるんだよ」

 「いや、いや、どう考えても 2/3 にはならないよ」僕は反論する。「確かに 1/2 にはなるけど、ドアを変更したってしなくたって、どちらにしても 1/2 じゃん。変えても変えなくても結果は同じだよ」

 「そうかな?そうなのかな?」水奈の声が半音上がる。いや、下がったのかもしれない・・ よくわからないけど、どちらにしてもこれは僕がドSモードと呼んでいる時の声だ。これはやばい。

 「わからないな」僕は冷静を装って答える。「直感ではドアを変更してもしなくても当たる確率は同じだと思った。よくよく考えて、やっぱり同じ結論に至った。つまり、ドアが1つ開いた時点で当たる確率は 1/3 から 1/2 になった。けれども、これはドアを変更してもしなくても同じだ。確率はどちらにしても 1/2 なんだ。 ・・これは揺るぎのない事実ではないのか・・ なぜドアを変更しない場合は確率が 1/3 のままなのか。逆になぜドアを変更すると確率が 2/3 になってしまうのか・・」

 「なんと言おうとも、どう考えようとも、ドアを変更した場合の確率は 2/3 になるの。当たる可能性が2倍になるの。だからドアを変更すべきなの。それが答えなの。ふふふ。わかる?わかるよね?わかりますよね? ・・あれ?あれれ?もしかして? ・・もしかして?」水奈の声が更に半音上がる。いや、下がったのか・・ どちらにしてもこれはドSモー・・ まあ、それはいい。

 「実際、この問題はアメリカで大きな論争を呼んだんだよ」水奈が自分のぷるんぷるんした唇を触りながら言う。

 「ふーん、そうなの?」僕は何事もなかったかのように応える。

 「うん。20年くらい前のことなんだけどね」水奈が説明を始める。「マリリン・サヴァントという人が、とあるニュース雑誌に連載していた自身のコラム欄で、モンティ・ホール問題に関する読者からの質問に回答したんだって。それが全ての始まり」

 「そう」

 「その回答が、さっきも言った “正解は『ドアを変更する』である。なぜなら、ドアを変更した場合には景品を当てる確率が2倍になるからだ” っていうものだった」

 「ふーん」

 「でね、その回答を読んだ読者たちから投書が殺到したらしいの。“彼女の解答は間違っている” っていう内容の投書が1万通くらい来たんだって」

 「1万通!?それは凄いね」

 「うん。それで、この問題が世間に知られるようになったのね」

 「なるほど」

 「投書をした人の中には博士号を持った人たちもいて・・ 千人近くいたらしいんだけど・・ みんながみんな、“ドアを変えても確率は半々であり、2/3 にはならない” と主張したらしいわ」

 「僕と同じ考えだね。それにしても博士号が千人とは・・ 凄いね」

 「そうね。で、マリリンはその博士号を持った人たちから散々に言われたらしいわ。これは『憂慮するほどの数学的知識の低さだ』とか『君は明らかなヘマをした』とか『君は頭脳明晰なのだから、数学的無知をこれ以上世間に広めるような愚行を直ちに止めて、恥を知るように』とか・・」

 「ひどいもんだな」

 「だから、マリリンは、より分かりやすい表をコラムに掲載して説明を試みた。それでも反論は9割くらいあったみたい。彼女はその時に受け取ったある博士の投書をを紹介したわ。それには 『現在、憤懣やるかたない数学者を何人集めれば、貴女の考えを改める事が可能でしょうか?』 みたいなことが書いてあった」

 「マリリンは数多くの数学者たちから目の敵にされたんだね」

 「そうね。でも彼女は自分の考えを曲げなかった。彼女がコラムで3回目の解説をした時に書いた言葉が印象的ね」

 「どんな言葉?」

 「現実が直観と反する時、人々は動揺する」

 「なるほど、興味深いね」

 「マリリンは更に詳しく分かりやすい解説をしたわ。それでも論争はおさまらなかったの。むしろ大論争へと発展した。事態は混乱の体を成してきた・・」

 「どうなったの?」

 「アンドリュー・・ なんだっけな・・ アンドリュー・ヴァージョニ、だったかな。その人が自分のパソコンを使ってシミュレーションをおこなったらしいの。当時、パソコンを持っている人は少なかったはずよ。そして、そのシミュレーションの結果はマリリンの答えと一致した」

 「おお」

 「それでも、ありえない、と主張する人がいたらしいわ。でも論争はマリリンが正しかったということで一応の決着がついた」

 「おもしろいね」僕は深呼吸をしてから言う。息が詰まっていた。「わかった。論争の結果がそういうことなら、答えはやっぱりそういうことなんだろうね。でも、やっぱりなんか腑に落ちないな。どうしてドアを変更すると当たる確率が2倍になるのか。うーん、頭の中がムズムズする。 ・・あ、だから、ジレンマか」

 「ふふふ」水奈が答える。「わたしも最初は納得できなかったわ。だから自分なりの方法で考えてみたの。寝る前に。まったくもう2日くらい寝不足になったわよ。でも、その甲斐あってか納得することができたわ」

 「水奈は数学が得意だもんね」

 「ふふふ。一応、数学の教師ですからね」

 「はは」

 「でね、ここからが本題。ちょっと前置きが長くなったわね」

 「え?今までが前置き!?」

 「そうよ」水奈が目を細めて言う。「でも、ちょうどよい頭の体操になったでしょ?」

 「ま、まあね。・・理解はしてないんだけどね」

 「で、本題なんだけど、今度、学生たちにこのモンティ・ホール問題に関する特別講義をするのよ」

 「うん?」

 「それでね・・ ふふ・・ ちょっとした頼みがあるんだけど」

 「なに?」

 「このモンティ・ホール問題のシミュレーションみたいなものを作れないかな?アンドリューなんとかさんがやったような。結果がちゃんと2倍の確率になることを学生たちに見せたいのよ」

 「・・・・」

 「なんでも良いのよ。プログラムを組んでも良いし。 ・・って、さすがにプログラミングはできないか」水奈が天井を見上げながら言う。

 「学生の頃に BASIC は覚えたけどね。それくらいだ」僕は答える。

 「ああ、懐かしいわね。わたしも覚えてた。みんなでゲームを作ったりしていたわね」

 「懐かしいね。でも、BASIC は今の時代にはそぐわないよね」

 「そうよね。うん。なんか・・ 他にないかな?」

 「うーん、そうだなあ・・ あ、EXCEL とかは?」

 「エクセル?表を作ったりする、あれ?」

 「そう、あれ。マイクロソフトの。エクセルなら色々な関数があるし、計算だけでなく、表やグラフも作成できる」

 「なるほど。いいわね」水奈がうわずった声で応える。「でもうまくいくかな?」

 僕は頭の中で簡単なプランをイメージしてみる。

 多分できるのではないだろうか。エクセルならば前の仕事で計算書などを作る時に使っていたので多少の知識がある。何となくではあるが、うまくいきそうな気がする。


 「・・ん?どうしたの?何を考えてるの?」水奈が聞いてくる。「何か気になることでもあるの?」

 いや、特に気になることはない。

 ・・いや、あるじゃないか。

 さっきから気になっているものが。

 ぷるんぷるんの口元だ。

 なんだろうか・・ さっきよりもうるうるが増してきた気がする。

 僕の視線が水奈の体を20センチほど下がる。

 そこにもぷるんぷるんが・・

 「ところで・・」水奈が唐突に言う。

 「んん?」

 「あのね」

 「ん?」

 「さっきから、どこ見てるの?」

 「え?」

 「さっきから、どこ見てるのって聞いてるの ・・いやらしい」

 「あ・・」

 「でも・・」

 「ん?」

 「・・いいよ」

 「え?」

 「・・いいよ」

 「え?」

 「だから・・ いいよって言ってるの」

 「うっしゃあ、もう1回いくぜ!」

 「・・うん」 


 ・・・・


 まあ、そんなやり取りがあったわけ。で、次の日から僕は水奈と共にエクセルを使ってモンティ・ホール問題を検証してみようということになったんだ。

 さて、うまくいくかな。


 ( 第2話 に続く)


注記: モンティ・ホール問題に関する記載は、Wikipedia の 「モンティ・ホール問題」 を参考にさせて頂きました。

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