【小説】 バンクーバー留学物語 - 0002

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 ドアが開き、ひとりの女性が現れる。年齢は50歳前後だろうか。ショートカットで少しぽっちゃりした印象。茶色い髪色で丸顔。事前に資料をもらっていたので、彼女がこれからお世話になるホストファミリーのジェーンだと分かる。

 資料によると、彼女には子供が2人いるということだった。ファーストフードで働いている長女エミリーと、大学生で長男のリチャードだ。ご主人はいない。離婚したのか死別したのか、もしくは他の理由があるのか・・・


 簡単に挨拶をすませる。彼女の口ぶりから温厚で朗らかそうな印象を受ける。

 「中に入って」彼女が微笑みながら言う。


 玄関を通り抜けて家の中に入る。初めて入るホストファミリーの家。意外と静かだ。今の時間、他には誰もいないのだろうか。

 ホームステイってどんな感じなのだろう。ある家族と一緒にひとつ屋根の下で昼夜を共にする。もちろん日本語は通じない。英語オンリーだ。休日は一緒にどこかに出掛けたりするのだろうか。もしかしたら、年頃の娘さんと恋に落ちちゃったりとか? ・・・いや、さすがにそれはないか。ドラマとか映画とかだとそういうことも有り得るのかもしれないけど、現実ではなかなかそういうことは起こらないのだろう。それに僕は今気になっている人がいる。実際に会えるのがいつになるのかは分からないけど、今はその人の方が大事だ。

 なにはともあれ、ここがこれからお世話になる家。緊張はしているけれど、とても楽しみである。


 ジェーンに連れられて家の中を進む。まずは僕のために用意してくれたという部屋に向かう。家を奥の方まで進む。部屋の前に着き、ドアを開けて中に入る。6畳くらいの広さだろうか。奥にセミダブルサイズのベッドが見える。そのすぐ横に茶色い大きなタンスが置いてある。左手の壁には窓があり、薄緑色のカーテンがかかっている。ドアを入ってすぐのところ、左手前側には机が置いてある。部屋の中はきれいに掃除されていてとても清潔感がある。

 「荷物を置いたら、キッチンルームに来て」そう言い残してジェーンが去って行く。


 机のすぐ横にスーツケースを置く。ロックを外し、ふたを開け、中から紙袋を取り出す。ホストファミリーのために買ったお土産だ。成田空港内にあるスターバックスで購入したタンブラーである。あえて日本っぽい柄のものを選んだ。喜んでくれるといいけど。

 日本を出国してからそれほど時間は経っていないのに、とても長い時間を旅してきたかのように感じる。家を出てからずっと興奮しっぱなしだったから時間感覚が狂ってしまったのかもしれない。 ・・・いや、ただの時差ボケかな。


 ふと、机の上方の壁に紙が貼ってあるのが目に留まる。手書きで「Welcome, Tetsu!」と書いてある。「ようこそ、てつ!」 ・・・なんだか嬉しくなる。こういうさりげない演出って良いなあ。


 さて、キッチンルームに行ってみよう。玄関からこの部屋まで来る途中にそこを通ったから場所は分かる。

 部屋を出て右手方向に廊下を進む。突き当りにリビングルームがある。そこをぐるっと左側に回り込むように歩いたところがキッチンルームだ。


 ジェーンが流し台の前に立っている。8人掛けくらいの大きなテーブルがあり、その上にスープらしきものが置いてある。白っぽい色。なんだろう。クラムチャウダースープか何かだろうか。

 「座って」ジェーンがニコニコしながら言う。僕は背もたれのある木製の椅子に腰を掛ける。ジェーンもテーブルを挟んで向かい側の椅子に座る。

 「飲んでみて」彼女が言う。

 スプーンでスープをすくって一口飲んでみる。美味しい。やっぱりクラムチャウダースープだった。ホタテの良い香りがする。そして温かい。外が寒かっただけに身体がポカポカしてくるのを感じる。


 あらためてジェーンに挨拶と自己紹介をする。彼女が日本からカナダまでの旅路はどうだったかと聞いてきたので、簡単に道程を説明する。途中、特に変わったことはなかったけど ―― いや、ひとつあったな。飛行機の中で隣のシートに座っていた人だ。ちょっといたずらが過ぎたかもしれない。まあ、いいや。覚えていたらまたどこかで話をするかもだけど、今はとりあえずいい。

 ジェーンは家族のことを手短に話してくれた。長女エミリーと長男リチャードのこと。事前資料の中に、ある程度のことが書いてあったけど、実際に話を聞くとイメージが膨らんでくる。会うのが楽しみだ。


 どうやら今夜の夕食は息子のリチャードが買いに行っているらしい。もう少ししたら帰って来るのではないかって。ちなみに普段の料理は全てジェーンが作っているらしい。


 外が少しずつ暗さを帯びてくる。雨は降っているのか降っていないのか分からない感じ。 


 初めての海外留学。初めてのホームステイ。ホストファミリーと会話が成り立つのか凄く不安だったけれど、ジェーンとは思っていた以上に意思疎通ができているように感じる。聞き取れない単語やフレーズもたくさんあるけれど、それに、自分の言いたいことがうまく言えないこともかなりあるけれど、不思議とそれなりに会話が成立しているような感じがする。長い間英会話スクールに通っていたことは決して無駄ではなかった・・・ と思いたい。

  

 リチャードを待っている間に、ジェーンが家の中を案内してくれるという。僕はジェーンに連れられて席を立つ。

 この家は少し構造が変わっている。まず、玄関が2階にある。1階は住居ではなく雑貨屋か何かだった。なので多分この家は借家なのだろう。そして、玄関の他に出入り口がもうひとつある。キッチン横にあるドアから一旦テラスに出て、そこから更に木造の階段を下って外に出れるようになっているのだ。キッチン横のテラスには屋根が付いた東屋みたいなものがあって、そこにテーブルと椅子が置いてある。テーブルの上には灰皿が置いてあるので、住んでいる誰かがタバコを吸うのかもしれない。

 一度、正面玄関に戻る。そこから廊下を3mくらい歩くと左手側にさっきまで僕らがいたキッチンルームがある。その少し先の右手側にジェーンの部屋がある。

 キッチンルームの先にはリビングルームがあり、ジェーンの部屋を回り込むように右手方向に伸びている。広さは12畳ほどだろうか。もっと広いかもしれない。40インチくらいのテレビが置いてある。

 リビングルームに入って右方向へ行くと突き当たりに長女エミリーの部屋がある。

 エミリーの部屋の前まで来ると、そこから更に右手方向に廊下が伸びている。上から見ると「コ」の字型に玄関方向に戻るような形だ。その廊下を3mほど歩くと左手側に長男リチャードの部屋がある。その先が僕の部屋だ。廊下の右手側にはバスルームがあり、トイレもそこにある。


 家の案内が終わり、いったんキッチンルームに戻る。


 玄関の扉が開く音がする。タイミングよくリチャードが帰ってきたようだ。

 両手に大きなビニール袋を持った彼が現れる。ひょろっとして少し痩せ気味な印象。髪は短めだ。顔立ちはハッキリしていて女の子にモテそうな感じ。グッチの帽子をかぶってるのがちょっとキザっぽい。

 ・・・ん?もうひとり誰か入ってくる。男性だ。リチャードと同じくらいの年齢。メガネをかけている。利発そうでインテリっぽいイメージ。リチャードの友人だろうか。


 ふたりに挨拶をする。もうひとりの男性はジョニーという名前で、リチャードと同じ大学に通っているらしい。母親のジェーンとも仲が良さそうなので、ちょくちょくこの家に遊びに来ているのかもしれない。


 リチャードとジョニーが食事をテーブルの上に並べる。スパゲッティ、ソーセージの盛り合わせ、ローストチキン。ピザもある。良い匂いが漂ってくる。どれも美味しそうだ。

 ふと、自分が空腹だったことに気付く。緊張の糸が緩んできたのかもしれない。

 準備が終わり、みんながテーブルを囲んで座る。長女のエミリーは仕事に行っていて、家に帰ってくのはもう少し遅くなってからみたい。


 初めてのカナダでの夕食。バンクーバーに住むホストファミリーと一緒に食べる初めての食事。まだ緊張感と言うかドキドキ感は残っているけれど、ワクワクする気持ちのほうが大きい。こういう感じで一緒に食事をしながら毎日おしゃべりできるなら英会話が上達するのも早いのではないだろうか。


 ・・・と思ったのも束の間。


 リチャードが何かを話しかけてきた。一瞬「え?」って思った。


 え?え?


 リチャード・・・ 君はいったい何語を話してるんだ?




(つづく)




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* 物語は事実にもとづいていますが、登場人物名・団体名は仮称です。

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